日本人空手家として英国での挑戦へ
僕は日本に帰国してからは、元通りの生活を送っていたが、4月になり、勤務する学校も校長が変わってから異様な締め付けが教員に対して行われるようになっていた。私立高校だったのでそういうことはよくあることだが、居心地が悪くなっていた。例え
ば、早朝に出勤させて理事長に朝の挨拶をさせるのが日課としてあった。また、学校説明会を毎週のように日曜日に設定し、強制的に手伝わせることもあった。最近になって、ようやくそのようなパワハラ的な職場環境に対しては世間的に問題視されるようになってきているが、当時はやり放題な風潮があった。そうこうするうち、一年くらいが経ち、ある日ジョージから手紙が届いた。黒帯を取得し、自分の道場を開いたという連絡だった。僕は友人としてとても嬉しく、彼のために池袋にある行きつけの武道具店まで行き、刺繍でジョージの名前が入った正式な黒帯を注文した。帯にはいくつかグレードがあるが、それは高級なものにした。イギリスで世話になったことに対してのせめてもの気持ちだった。出来上がるとすぐにイギリスに送ってあげた。数日後、彼から感謝の手紙が送られ、非常に感激していた内容だった。それから何度か彼から手紙が送られて来たが、内容は道場生がどんどん増え、その稼ぎで親にスペインで家を建ててあげたり、自家用車をベンツに変えたり、自分自身の豪邸を買ったりと、まさに夢物語のような話だった。
それから、さらに約1年後の6月に、僕は再び仕事でイギリスに行くことになった。僕も日本の道場で2段に昇段していたので、久しぶりの英国訪問に気分が高揚していた。そして、イギリスに到着した翌日、早速ジョージが車で僕に会いに来てくれた。手紙で
言っていた通り、そこにはシルバーカラーのベンツコンバーチブルが停まっていた。
「ジョージ、久しぶりだね。元気そうだね!」と僕は笑顔で言い、固く握手を交わしてから、
「本当に凄いベンツだね。いくらしたの?」と僕は少し興奮気味に言った。
「ナオト、久しぶりだね。ナオトも元気そうで良かった。この車は4万ポンド(約
800万円)だったよ。購入記念にドイツからこの車を走らせて帰って来たんだ
よ」と、
思いがけない答えが返ってきた。初めて会った時の慎重で倹約家のイメージのあったジョージとはかなり雰囲気が異なっていた。自信に満ち溢れ、余裕さえ感じられるセレブのような雰囲気が漂っていた。
僕は早速、寝泊まりしている寮に案内し、僕の部屋で一時間くらいの間ジョージと雑談した。久しぶりの再会で話も盛り上がった。ジョージも興奮気味で、僕が、
「申し訳ない、お土産忘れちゃったよ」と言うと、
「ナオト自身がお土産だよ」と女性を口説くかのような言葉がすぐに返ってきた。そんなことを日本人が聞いたら引かれてしまいそうだが、僕はそんなキザなことを言ってくれるジョージがとてもいい友人に思えてならなかった。
翌日、早速ジョージの家に招待されることになり、朝10時頃、ジョージが再びベンツで寮まで迎えに来てくれた。20分くらい車で走って登り坂に差し掛かると、そこから1分くらい登って行った所にジョージの豪邸があった。よく言われる丘の上の豪邸だった。平屋の中古物件だったらしいが、高級住宅街の中にあり、庭の20メートルくらい直線に伸びたグリーンの芝生がその高級住宅さを象徴していた。しかも、その芝生の先は海岸で、1階の部屋からも海が見え、さらに海の先にはフランス大陸のホワイトクリフ(白い崖)が見えるという最高の眺望を有していた。
「いったい、この家はいくらしたの?」と僕が尋ねると、
「45万ポンド(約9千万円)だよ」
「だけど、ローンだよ」と、ジョージははにかみながら答えた。こんな豪邸はテレビドラマやハリウッド映画で見たことはあったが、目の当りにするのは初めてだった。しかも、平屋を改装して2階建てにし、2階にはジャグジー風呂を取り付けるとジョージは言っていた。僕は空手道場経営でどうしてこんなに収入があるのか初めは全く理解できなかった。
そんな久しぶりのジョージとの再会だったが、この時もジョージの道場に行ったり、その友人達を交えて楽しく交流したりして、あっという間に滞在期間の一か月は過ぎ去った。日本に帰国してからも、何か心に引っ掛かるものがあった。それは、イギリスでの生活への憧れのようなものだった。でも、僕にはその時すでに結婚を誓った女性がいて、数か月後には挙式を控えていたのだった。当然、相手の親には挨拶も済ませていた。相手の親や兄弟からすると、僕が教員をしているというだけで大きな安心感と信頼感があるに違いないのだ。そんな状況から察すると、とてもではないが、その安定した地位を捨て、イギリスで暮らすことに快く賛同してくれるとは到底考えられなかった。それにも増して、空手で生計を立てたいなどと、いったいどの面下げて言えるであろうか。そんな妄想とも言える考えはとりあえず払拭しなければと思い、結婚に向けた生活を送ることに集中しようと僕は思った。
それから数か月が経ち、秋には結婚式も済ませ、新居も埼玉県の2LDK賃貸マンションに決め、新婚生活がスタートしていた。それでも、しばらくすると、またイギリスへの思いが少しずつ募ってくるのを僕は感じていた。そんな時にまたジョージからの手紙が届いた。そこには、家をさらにグレードアップしているだとか、道場を増やせそうだとか、夢のある話が一杯詰まっていた。それともう一つ、僕がジョージに前に聞いたことに対する返答があった。僕は以前、
「イギリスで僕も空手を教えながら暮らすことはできるかなぁ?」とジョージに尋ねたことがあった。それに対して、
「ナオトならできるよ。それと、ビザのことだけど、ホームオフィース(英国内務
省でビザを発行してくれる機関)に聞いてみたら大丈夫そうだったよ。一緒にイ
ギリスでやってみないか? ナオトなら成功するよ!」という返答内容があったのだった。僕はこの返事を読んだ後、気持ちが高ぶって来るのを感じた。その日以来、さらに、渡英したらどうなるだろうか? という思いがしばしば頭をよぎるようになっていた。そんな状態で年も明け、 もしも実際、渡英するなら4月あたりだろうか? と考えるようになっていた。しかし現実は新婚早々、安定した仕事をやめてほぼゼロからの空手道場経営など夢のような話だった。
2月の下旬になると、僕は渡英するのかあきらめるのか、早く決めなければならないというプレッシャーに苛まれる日々が続いていた。あまりにもぎりぎりだと、さすがに職場に迷惑がかかるからだ。
悩みに悩んだ挙句、後悔することが嫌だったので、最終的にはその夢のような挑戦
に立ち向かおうと決心したのだった。ようやく決心がついたのは3月に入ってからだった。妻の由美には、結婚する前に冗談っぽく、
「将来、仕事をやめてイギリスで空手道場を開きたいんだ」と話したことがあった。その時は結婚前というのもあったかもしれないが、
「私もついていく!」と由美は明るく返答してくれたことがあった。でも、今回は真剣に奥さんとなった由美から正式な同意を得なければならなかった。こんな時、話上手な人はどうやって説得するのだろうか?と何度も自問自答してみた。結局、僕は, 真心で説得するしかない、という結論に達した。僕は週末に勇気を出して由美に話をしてみることにした。こういう話を切り出すのは、やはり食事をしながらするのが良いと判断し、土曜日の夕食時にしてみようと僕は決心した。
ダイニングのキッチンカウンターから由美が料理を出してくれるので、僕がそれをテーブルに並べ、並べ終えてから由美が座るのを待った。数分後、由美がようやく僕の正面に座ったので、僕はすかさず、
「実は仕事の件で話があるんだけど」と話を切り出した。由美はちょっと驚いたよう
な表情で、
「どうしたの?改まって」と言った。僕は少し緊張しながらも勇気を出して、
「今の仕事をやめてイギリスで空手道場を開きたいんだ」と伝えた。少し間があって、「本気なの?」と由美が予想したよりも冷静な表情で質問した。
「実はこの数か月ずっと真剣に考えてきたことなんだよ。僕は本気だよ!」と僕は由美の目をじっと見つめながら言った。
「大丈夫なの?私はイギリス行くのは構わないけど・・・」
「経済的にはうまくやっていけると思うんだ。確実に生徒は増えていくし、最初は
大変かもしれないけど、ジョージみたいに着実に稼いでいけるはずだよ」
「いつ行くつもりなの?」
「4月から行きたいから、今月には上司に言おうと思っているんだ」
「そんなすぐに?」由美はちょっと怪訝そうな表情を浮かべたが、結婚前にそのような話はしておいたので、意外とすぐに受け入れてもらえるのではないかという希望的
観測があった。由美は少し考えて、
「もう決心したの?」と聞いてきた。
「僕の中では決心はできているんだ」と僕は真剣な眼差しで由美の質問に答えた。
「わかった。でも、これからいろいろ考えていかないとね」と由美から肯定的な意見をもらい、奥さんという心強い味方を得て、僕は少しほっとした。でも、まだ話さなければならない手強い相手が3人控えていた。自分の父親と由美の母親、そして由美の父親代わりの兄だ。
航空機内での決斗
帰国前日にジョージから,
「正月も一緒に過ごさないか? 年末にトミーと一緒にバーでバウンサー(用心棒)の仕事があるんだ。ナオトも一緒にやらないか?」と誘われた。「用心棒」という仕事を持ちかけられるということ自体、僕の想像の域を遥かに超えた出来事だった。僕はとても驚くと同時に、少し興味も湧き上がったが、航空チケットを一度キャンセルしていたこともあり、その話に乗る訳にはいかなかった。
いずれにしても、僕は短期間ながらも充実した日々を過ごせて、帰りの航空機内では満足感で満たされ、幸せな気分で座席に座っていた。僕の座席は、現在ではなくなっている喫煙席の1つ手前だった。喫煙席は機内の最後尾にあった。そのため、タバコの匂いがダイレクトに伝わってきていた。それでも満足感に浸っていた僕は、最初は大して気にはならなかった。それから数時間経ち、少し睡眠を取り、東京にも近づきつつあった頃、座席に妙な振動を感じた。後ろを見ると、後部座席のイギリス人らしき30代前半くらいの男がヘッドホンを聴きながら貧乏ゆすりをしていたためだとわかった。風貌は痩せ型でパンクロッカーのように黒の皮ジャンを着て少し着崩し、ピアスを右耳にし、ブラウンの短髪を整髪料で立たせた遊び人風の男だった。周りにその仲間らしき男が2人タバコを吸って立っていた。その2人も耳にピアスをつけていて、似たような恰好をしていた。僕はすぐに、
「Please stop it!」(それやめてくれませんか?)とその男に言ったつもりだった。でも、僕の発音が悪くて、「Freese! Stop it!」(動くな!それやめろ!)と聞こえてしまったのか、上から目線的なニュアンスで受け取られてしまったのか、その男は「Fuck off!」と僕に言い返し、中指を立ててきたのだった。僕も頭に血が上り、気が付くとその男に中指を立てて同じ言葉を返してしまっていたのだった。相手もまた同じように言って煽ってきた。僕は東京到着も間もなくということもあり、冷静さを取り戻そうとトイレに行くことにした。
そして、僕がトイレから戻っても、再度貧乏ゆすりを繰り返す行為に我慢がならず、
「Do you want to fight me?」(俺とけんかしたいのか?)と切り返してしまった。
すると、その男も
「Yes!」と答えた。僕は念のため、
「I am a Karate instructor!」(僕は空手の先生だよ)と言うと、相手も
「I also have a Karate black belt!」(俺も空手の黒帯持っているよ)と言い返してきた。この男の子供じみた応酬に僕は呆れながらも、すかさず、
「I will be waiting for you at the gate in the airport.」(僕は空港のゲートで待っている
から)と言った。
「Yeah!」(いいよ!)と、その男は答えたので、僕は、
「I’ll be waiting for you!」(待っているよ!)と再び言い放った。成田空港に着陸後、僕は自分の機内荷物を手に取って、その輩を後にしてゲートに向かうことにした。空港内の連絡線に乗ってしばらく歩くと、ゲートに到着した。僕はそれからしばらく、そのイギリス人らしき無礼な男とその取り巻き連中の2人を待っていた。僕は久しぶりの日本だし、当時付き合っていた彼女にも早く会いたい気持ちで一杯だったのだがプライドがそれを邪魔していた。
それから僕は「決斗」のため、4、50分の間ゲートで彼らを待っていた。出口のゲートは1つしかないので来るはずなのだがなかなか現れなかった。そのため、僕は決斗する気力も失せ、ばかばかしくなり結局何事もなく帰ることにした。
きっと彼らは怖気づいてゲートまでのルートのどこかで立ちとどまっていたに違いない、と思うようにして僕は自分自身を納得させた。
イギリス人の空手家との出会い
6月初旬の夏の気配を感じる時期に僕はイギリスに初めて渡った。その際、イギリスの伝統や文化の重みを非常に肌で感じた。それはイギリスに飛行機で降り立つ直前、空から見えた街並みの景色や、初めて目のあたりにしたイギリスの19世紀の雰囲気を残している街並みで感じられた。空からの景色はほとんどの家の屋根がベージュ系一色で統一され、街並みはチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」、や「オリバーツイスト」などに登場する光景だった。石畳が地面一面に連なって,ヴィクトリア調のレンガを用いた建物が立ち並び、古き良き時代を大切にする文化がそこには根付いている。日本のように再開発に力を入れ、古き良き伝統が感じられる建物を減少させている国とは大違いである。毎週日曜日には公園でフリーマーケットが行われ、家具などの中古品がたくさん売られて賑わっており、日曜日の朝にはテレビで使い古された家具が高値で取引されているオークション番組が放送されて高視聴率を取っているという具合なのである。
それはともあれ、僕がどうして英国に行くことになったかというと、勤務先での出張によるものだった。僕の名前は石上直人で、高校の教諭をしている。出張での職務は高校生を100人ばかり英国に引率し、一か月間現地の語学学校に通わせ、僕は彼らの監督業務をするということだ。僕は英語科教員として英国へ生徒引率するために度々行かなければならなかったのだが、この時は初めてだった。仕事はもっぱら生徒の管理なので普段の生活はわりと暇だった。イギリス人の教員たちとたまに夜になるとパブに飲みに行くくらいが唯一の楽しみだった。ちなみにここでいうパブとは、日本でありがちなカウンター越しに女性のいる飲み屋とは違ってPUBLIC(公衆)のための飲み屋という意味で、日本で見かけるワンショットバーのような店のことを言う。イギリスではこのパブという飲み屋が主流である。そのパブに、ある晩気晴らしに同僚を伴って行った際、僕は入り口のドアに空手道場のポスターが貼ってあるのを発見した。そこに馴染みのある空手流派のマークがあり、それは僕がそれまでやってきた空手流派のマークだった。僕が仕事で赴いた場所は英国でも田舎の方で、ケント州のハイスという港町だった。こんなイギリスの田舎町にまで日本の文化が浸透しているということに驚かされたのと同時に、とても嬉しかった。
翌日、早速僕はその道場の所在地に向け、寮で借りた自転車に乗って向かった。そこは隣町のサンドゲートという町にあった。5分くらいで到着した。海岸沿いの通りから少し内側に入り、穏やかな坂を登った路地にある教会のホールにあった。中に入ってみると、私の空手着と同じマークの入った空手着を着ているイギリス人がたくさんいた。20人以上はいるようだった。その老朽化しているが頑丈そうに造られた教会のホール内に、
「セイヤー!」と日本人のような掛け声がこだましていた。
僕がホールのエントランスにある受付カウンターの所から中を覗いていると、指導員らしき筋肉隆々の、スキンヘッドの黒帯が僕のところにやって来た。背丈は大きくなく僕より少し低いくらいだが恰幅が良く、年齢は五十歳前後に見えた。帯を見ると金線が3本入っているのですぐに3段だとわかった。僕は当時初段であった。
「ハロー」と声を掛けられたので、
「ハロー」と僕もすぐに返答した。すると、
「ここで空手を習いたいのか?」と聞いてきたので、
「私は日本人で、すでに同じ流派の初段を持っています。仕事で今イギリスに滞在していますが、できたらここで滞在中に稽古に参加させてもらいたいんです。練習するのにいくらかかりますか?」と尋ねた。すると、
「黒帯ならいつでもウエルカムだし、フリー(無料)だよ」と彼は笑顔で言ってく
れた。僕は嬉しくなり、自分の名前を伝え、次回また来たいと告げると彼は快く承諾してくれた。彼の名はトミーといった。後でわかったのだが、彼はこの町では知らない人はいないくらいの有名人であった。有名人というより、この町の顔役と言った方がふさわしいのかもしれなかった。実際、彼と町を歩いていると、すれ違う人の多くが彼に敬意を表した挨拶をするのだった。
僕は、その日はそのまま寮に戻ったが、少し興奮して落ち着かなかった。肝心の空手着があればいいなぁ、と思ったが、ないのは仕方ないので次回はジャージで稽古するしかなかった。それでも、空手道場の発見は予想外の展開で、イギリスで空手の稽古ができるということが嬉しくて仕方なかった。異国の地で異国の人々と空手の稽古ができるということに、何かとても新鮮さを感じ、気分が高揚していくのを感じていた。でも実際、僕が黒帯を取得してから2年ほど空手の稽古から遠ざかっていたのもあり、正直少し不安でもあった。最初に教会の道場を訪れてから3日後が次の稽古日だった。火曜日と金曜日の週2回だった。次の稽古日である金曜日に行くまでには時間がほとんどなかったが、ブランクを少しでも埋めるため技の練習をしておこうと思った。柔軟体操から蹴りの練習、特に回し蹴りの練習を何度も行った。しまいには引率してきた生徒の中にラグビー部の体格のいい生徒がいたので、練習相手を頼んだら面白そうだと言って引き受けてくれた。蹴りのまねをさせてそれを受ける防御の練習までしておいた。
そしていよいよ金曜日がやってきた。その日は朝から気分が高揚していたが、それと同時に多少の不安もあった。そして稽古の時間になり、寮の自転車を借りて道場に到着すると、もう何人かの道場生が空手着に着替えて道場に入っていた。僕は興奮を抑えながら持ってきたジャージに着替え、道場内に
「押忍!」と言って入った。僕が来たのを見て道場内の生徒達はこちらを一瞥し、こちらに挨拶を返すこともなく、道場の片隅に集まって何か話し始めた。どうやら、日本人の黒帯らしき男が今度稽古に参加しにやって来るという話を聞きつけていたというような雰囲気だった。僕はいわゆるアウェイの気分になり、仕方なく彼らと反対側の片隅で彼らを背にして柔軟体操でもすることにした。それから突きや回し蹴りをするなどして体をほぐし、最後には得意の飛び後ろ回し蹴りをやってみた。すると、後方から
「ヒュー!」「ワオー!」というちょっとした歓声が聞こえてきた。少しは黒帯としての実力を認めてもらえたってことかと思い、僕は少しほっとした。するとすかさずその道場生の中の1人が僕の所に駆け寄り、
「Would you like to warm us up?」(準備運動の指導お願いします)と言いに来た。
彼は中肉中背のハンサムな茶帯(一級)だった。おそらく、この中では一番古くて
リーダー格のよう存在なのだろうと瞬時に感じられた。その場には黒帯はおらず、茶帯が彼を含めて2人だけだった。彼の名前はジョージ・ブラウンといった。彼との出会いはその後の私の人生を大きく変えることになるとは、その時はまだ予想だにしなかったが。僕は思ってもみなかった彼の申し出が嬉しくてすぐに、
「Yes, of course!(もちろん、いいですよ!)」と返答した。僕は早速、上下が紺色ジャージのスタイルで初対面の25人ほどのイギリス人の集団の前に立ち、まずは
「押忍!」と大きな掛け声をかけると、彼らからも、
「押忍!」と大きな声が返ってきた。僕が準備運動の、
「いち! に! さん!」と号令を掛けると、彼らもそれに続き、
「いち! に! さん!」と真剣な眼差しで声を出した。日本の空手道の気合の入った声が教会のホール全体にこだまし、私は不思議な感動を覚えていた。
始めて10分くらい経過して準備運動がそろそろ終わりかけようとした時に、道場主であるトミーが遅れてやってきた。トミーは僕を見ると、にっこり笑顔で
「押忍、サンキュウー、センパイ」と挨拶した。僕も、
「押忍!」と挨拶を返した。ちなみにイギリスでのセンパイとは「初段」という意味である。二段になると「センセイ」になる。日本人としてはちょっとおかしく思ってしまうかもしれないが、言葉とはそういうもので、これが彼らイギリス人の間で共有された1つの言葉になっていた。その後、僕に代わってトミーが正面に立ち、元立ちとして基本の技から指導を開始した。トミーは身長こそ165センチくらいで、イギリス人にしては低いほうだが、スキンヘッドで胸囲も1メートルはあり、腕も太く恰幅が良かった。貫禄のある道場主だった。黒帯の3段を示す金線3本も彼が締めるとなかなか似合っていた。そんな彼が「いち! に! さん!・・・・・」と日本語の掛け声をかけているのを目の当りにすると、空手は国際語みたいなものだなぁ、と今更になって感心してしまった。
一通り稽古が終わって、僕はホールの横にあるカウンターの裏に行って着替えをしていると、先ほど僕に準備運動の指導を頼みに来たジョージが笑顔でやって来た。どうやら日本人の黒帯である僕に興味があるようだった。どうしてイギリスに滞在しているのか、どれくらいの間滞在する予定なのか、今どこで生活しているのかといった質問を立て続けにしてきた。しまいには自分の家に遊びに来ないかと誘ってきた。
「明日は時間ありますか?」とジョージは笑顔で聞いてきた。
「時間ありますよ。けっこう暇なんです。生徒の監督業務は午後にはないことも多
いんです。ちょうど明日の午後は空いていますよ!」と僕は返答した。普段、午前中は寮の一階で生徒達は英語の授業を受け、午後は近所に観光に出かけたり、サッカーなどのスポーツをして遊んだりしていた。午前中の授業の合間には休憩時間が15分ほどあり、生徒は売店でお菓子を買うことができる。僕の監督業務としての仕事は販売時に生徒を整列させることであった。あとは生徒が前半組と後半組に分けて2週間交替でホームステイを体験することになっており、ホームステイしない場合は授業を受けられる教室付きの寮で過ごすのだが、そのホームステイ先での苦情を受けて生徒指導するくらいであった。例えば、こんなことがあった。苦情を受けて男子生徒が泊まっていた家
に行き、そのホストマザーから話を聞くと、その生徒が夜中に起きてたまたまホストマザーと廊下で会った際にネグリジェ姿の彼女を見て、
「オー、ユーアーセクシー!」と言ってしまったそうだ。ホストマザーはかなり不気味になり、もう面倒が見られないので引き取ってほしいと言われてしまった。その際は仕方ないので寮に彼を引き取り、その後、その生徒の指導にあたった。生徒は思い浮かんだ英語を思わず口にしてしまったのかもしれないが、普通に考えれば、
「あなたは悩殺的ですね!」などと、ほとんど親しくもなっていない外国人の他人から、いきなりそんな失礼なことを言われたら不気味に思うのは当然だろう。とはいえ、そんな指導はめったに起きなかったので、普段はかなり暇を持て余していた。翌日には誘われたジョージの家を昼過ぎには訪ねていた。
前の晩にジョージに書いてもらっていたジョージの家への道のりをメモで見ながら、それらしきテラスハウス風の建物を見つけることができた。ドアの横にあったベルを鳴らすと、ほどなくして戸が開き、ジョージが笑顔で出迎えてくれた。中に入ると、母親を紹介してくれた。50代前半くらいに見え、ブラウンのショートカットで、優しい感じの小柄な細身の女性だった。笑顔で挨拶されてとても感じが良かった。
すぐに彼の部屋へ通された。日本でいえば6畳ほどの部屋で、独身者の部屋にしては小綺麗にしてあった。少しすると母親が紅茶を持ってきてくれた。僕は普段ジョージが使っていると思われる書斎の椅子に腰かけ、ジョージは簡易的な椅子に腰かけて、それからどちらからということもなく話が始まり、1時間、2時間はあっという間にたってしまった。話の内容は主に空手の話だったが、それから日本の習慣や、イギリスの習慣、さらにプライベートな話になっていき、好きな女性のタイプから、彼女の話まで話すようになっていった。英語はずっとやってきたとはいえ僕はさすがに疲れを感じた。それでも、今まで欧米人とこんなにじっくり楽しく話をして盛り上がったことがなかったので、その疲れを超えて話を続けることができた。そして話もようやく一段落したので、2人でチェスをすることになった。僕はチェスをするのは初めてだったが、ジョージにやり方を教わっているうちに、日本の将棋とルールが似ていることに気づいた。そうこうしているうちに夕方になり、とりあえず寮へ帰ると告げると、
「また来てくれ、いつでも歓迎するよ!」と言われ、とてもうれしい気持ちで帰宅の途に就いた。ジョージの家から寮まで徒歩で15分くらいかかったが、イギリスのグリーンの芝生で覆われたきれいな街並みを見ながら歩くのはとても爽やかで気分が良かった。6月の夕方に吹く穏やかな風もまた心地良かった。
そんなこともあり、僕の英国滞在生活にも活気が出てきて、それまでの平凡で退屈な生活から解放された気分だった。翌日には日本の実家にいる母親に直接電話をし、空手着をすぐにイギリスに送ってくれるよう頼んだ。母親にしてはちょっと不思議に思ったようだったが、事情を説明するとすぐに納得してくれた。ジョージのいる道場には週2~3回は行くようにした。滞在期間は1か月なのでもっと行きたいところだったが、道場も教会のホールを借りているので、毎日やっているわけではなかったから仕方なかった。
ジョージの自宅を訪問した翌週には日本から空手着も届いた。大袈裟だが、この時ほど母親に感謝したことはなかったような気がするくらい嬉しかった。ジャージで稽古に行って、たとえ黒帯と認められたからと言っても、やはり空手着を着て黒帯を締め、英国の道場で稽古したいと思うのは当然のことだった。
そして2回目の道場稽古に行く際には空手着を持参して行けたので、僕は嬉しくて胸を躍らせた。久しぶりに、そしてイギリスの道場で黒帯を締めた気分は最高だった。道場生たちは黒帯を締めた僕の姿を見て、本当に黒帯だったんだ、という彼らの疑念が払拭されたような顔つきで僕を見ていた。稽古が終わった後は、たいてい仲の良い仲間数人で車に乗り込んでビールを飲みにパブに行き、楽しい語り合いをした。ジョージが中心になって毎回僕を誘ってくれた。僕が行けば、当然のことながら日本の空手の話になった。
「ナオトはいつから空手をやっているんですか?」
「ナオトは試し割りで何を割れますか?」
「日本にはどんな強い選手がいますか?」といった質問攻めになった。みんな僕に質問する際に、とても丁寧に気を遣いながらも、フレンドリーな表情で話しかけてくる態度に、僕はとても感銘を受けた。英国人と一つの武道を通して交流できている状態がとても新鮮に感じられた。これが国際交流ってやつなんだなぁ、という思いに耽った。
そんな楽しい生活もあっという間に終わり、退屈な4週間が、楽しくて充実した4週間に変わってしまった。人生とはつくづく面白いものだと、この時ばかりは実感した。そして、空手をやっていて本当に良かったとも思えたひと時だった。帰国すると、もう7月初旬で、イギリスとは違い日本はかなり蒸し暑かった。帰国してからもイギリスへの思い出は強く、しばらくの間は時間があれば物思いに耽っていた。
再び英国へ
帰国してから数か月たち、12月後半の肌寒い季節になっていた。ある日、たまたま勤務先の学校に取引先の旅行会社の営業マンが来ていた。30代くらいのいかにもサラリーマン風の男性で、紺のスーツで白ワイシャツにワインレッドのレジメンタルネクタイを身にまとい、事務室前で事務員の対応を待っているところだった。彼はこの学校の英国研修旅行の担当者だった。僕はイギリスの話がしたくなり、僕の方から彼に話しかけた。イギリスの状況や滞在中の姉妹校の生徒の話題などで話は盛り上がった。その話の中で、姉妹校の生徒を対象にした5日間だけの英国留学体験ツアーを冬休みに予定しているのだと聞いた。僕はすぐさま、
「そのツアーの枠で、私も自費で一緒に行くことはできませんか?」と気が付くとお願いしてしまっていた。その営業マンは、
「多分、そのツアーの枠で行くことは可能だと思いますよ。後ほどまた詳細をお知らせしますね」と言った。
僕はラッキーだと思った。このツアーの枠で行けるとかなり割引してくれるからだった。その晩、このことをジョージに電話で告げると、彼もとても喜んでくれた。僕自身も再びイギリスに行けるのがたまらなく嬉しかった。今度は空手着と黒帯も前もって用意して、準備万端で出発の日を迎えた。その日は朝から気分が高揚していて、成田空港に到着するまで落ち着かなかった。現地に着いてみると、短期間の留学体験に参加する他校の高三の女子一人と男子二人、それに引率教員が待合のロビーで待っていた。その引率教員は60過ぎのやや腹の出た、白髪交じりの男性だった。彼は朝から同僚の愚痴をこぼしていた。僕らはロンドン行きのフライト搭乗ゲートから搭乗し、その後のフライトは順調だった。10時間以上のフライトなので、あっという間とまではいかないが、隣席の女子学生と談笑したり、映画を見たりしながら、思った以上に早くヒースロー空港に到着した。
到着後に学生たちと引率教員と別れ、僕は空港のロビーをうろうろしていたが一向にジョージが現れないので不安になった。僕はジョージの自宅に電話しようと思い、近くにあった公衆電話を使った。すると、ジョージのお父さんが出て、
「ジョージはもう弟と一緒に迎えに行っているよ!」と言われた。僕は少し安心して5分ほど待っていると、ジョージが彼より5センチくらい背の高いジェイミーいう弟を連れてやって来た。僕は2人と強い握手を交わし、
「本当に来たんだね!」とジョージが驚きの表情で快く歓迎してくれた。早速、赤色のかなり年数のいった日本製ダイハツ車に乗り込み、ジョージの実家に向かった。ドライブの途中でサービスエリアのような場所があったので、コーヒーを飲みに休憩した。カフェに入ると、当然のことだが、周りがすべて英語の看板やメニューなので、短い期間とはいえ、再度イギリスに来ることができたんだ、という実感が湧き上がって来た。休憩をとってそのカフェを出た際に、カメラのタイマーを使って3人で記念撮影をした。
ジョージの家に着くと、彼の両親が僕を大歓迎してくれた。
「ナオト、わが家へようこそ!何か要望があったら何でも言って!」と父親は満面の笑顔で言ってくれた。大柄で恰幅のいい明るくて気さくな男性だった。母親は以前会った時と変わらず優しかった。2人とも本当にいい人に感じられた。
この時も、国際交流ってなんて素敵なのだろう、と高校生のような新鮮な気持ちになれた。僕が寝る部屋は、以前初めてジョージと語り合った部屋を使わせてくれた。その日はもう夜遅い時間というのもあり、少しみんなで談笑してからすぐ床に就いた。
次の日の朝は目覚めもよく、イギリスにしては珍しく晴れていて、ジョージの母親が飼っている黄色いインコが可愛らしい鳴き声でさえずっていた。ジョージのお母さんが作ってくれた英国の伝統的な朝食(ベーコンと目玉焼きとパンに紅茶)がやけにおいしく感じられた。それから3日間、ジョージも年末の休みに入っていて仕事はなく、ワイン好きの友人宅に行って僕を紹介してくれたり、フランスに行ってピザを食べたりして楽しい日々を送った。
フランスといっても、僕が行ったのはフランスのはずれにあるカレーという小さな港町で、イギリスのドーバーという港からフェリーでドーバー海峡を渡り、たった40分くらいで行ける距離だった。行く途中でカモメがたくさん寄ってきてフェリーと並行して飛んでいた。日本人からするとカモメはとても優雅で美しい鳥だと思ってしまうものだ。
「こんなに優雅なカモメを間近で見られていいね!」と僕が言うと、
「ナオト、カモメなんてこの辺の港あたりではたくさん生息していて、ゴミ箱を荒らしたりするからカラスと変わらない鳥なんだよ。駆除されるべき鳥なんだよ」とジョージに言われ、少しがっかりした。
フェリー内にはTaxフリーのショップもあり、ディオールやシャネルなどのブランド品の香水なども販売していた。船内では何も買わずフランスのカレーの港に着くと、他国へ入国することになるのでパスポートが必要だった。僕は事前にパスポートを準備していたのですぐにそれを見せて通過できた。他国に入国するというのに、空港のような物々しい感じではなく、まるでディズニーランドに入場するような簡易なチェックで不思議な感覚だった。カレーというフランスの田舎町だったが、女性たちの洗練された服装が印象的で、イギリスの田舎町のサンドゲートやドーバーの女性の装いとは明らかに異なっていた。ジョージは以前、好みの女性について語ってくれた時に、将来はフランスの女性と結婚したい、と言っていたのを思い出して僕は納得した。
それはさておき、無事にフランスに着いてから、とりあえずピザを食べようということになり、普通のレストランでピザを食べたが、久しぶりに本物を食べた気がするくらい美味しかった。その後、小さなカフェに入って紅茶とショートケーキを注文したが、これも日本なら表参道ヒルズあたりで出てきそうなオシャレ感たっぷりの盛り付けだった。かわいいフランス国旗がケーキに刺さり、ケーキの周りにソースが散りばめられていて、さらに味も最高だった。そんな楽しい日々も最終日の三日目となったが、もう少しだけ滞在したいという気持ちが強くなってしまった。予定された便で帰国すればその後に起こるようなことには出くわすことはなかったのだが、と後で思うことになる。
結局、思案の末に滞在を延長したいと日本の旅行会社に電話することにした。電話をかけると担当の営業マンは不在だったが、代わりの担当者と話すことが出来て、追徴分は帰国後支払うという約束をして、もう一日だけ帰国日を延長してもらった。でも、楽しい時は何でもそうだが、あっという間に過ぎるものである。延長された一日分もジョージの友人達とカンタベリーに行ったりして楽しいひと時を過ごして瞬く間に終わってしまった。それでも、ジョージの友人2人を交えての交流は、年齢もほぼ皆同じ30歳くらいで、まるで留学先でできたクラスメートのようにざっくばらんな会話も楽しむことができた。僕は留学したことがなかったのでそのような貴重な体験もでき、再び渡英できて本当に良かったと思った。そして翌日、変更された帰国日に予定通り帰路に就こうとしていた。
イギリス人の空手家との出会い(2)
僕がホールのエントランスにある受付カウンターの所から中を覗いていると、指導員らしき筋肉隆々の、スキンヘッドの黒帯が僕のところにやって来た。背丈は大きくなく僕より少し低いくらいだが恰幅が良く、年齢は五十歳前後に見えた。帯を見ると金線が3本入っているのですぐに黒帯3段だとわかった。僕は当時初段であった。
「ハロー」と声を掛けられたので、
「ハロー」と僕もすぐに返答した。すると、
「ここで空手を習いたいのか?」と聞いてきたので、
「私は日本人で、すでに同じ流派の初段を持っています。仕事で今イギリスに滞在していますが、できたらここで滞在中に稽古に参加させてもらいたいんです。練習するのにいくらかかりますか?」と尋ねた。すると、
「黒帯ならいつでもウエルカムだし、フリー(無料)だよ」と彼は笑顔で言ってくれた。僕は嬉しくなり、自分の名前を伝え、次回また来たいと告げると彼は快く承諾してくれた。彼の名はトミーといった。後でわかったのだが、彼はこの町では知らない人はいないくらいの有名人であった。有名人というより、この町の顔役と言った方がふさわしいのかもしれなかった。実際、彼と町を歩いていると、すれ違う人の多くが彼に敬意を表した挨拶をするのだった。
僕は、その日はそのまま寮に戻ったが、少し興奮して落ち着かなかった。肝心の空手着があればいいなぁ、と思ったが、ないのは仕方ないので次回はジャージで稽古するしかなかった。それでも、空手道場の発見は予想外の展開で、イギリスで空手の稽古ができるということが嬉しくて仕方なかった。異国の地で異国の人々と空手の稽古ができるということに、何かとても新鮮さを感じ、気分が高揚していくのを感じていた。でも実際、僕が黒帯を取得してから2年ほど空手の稽古から遠ざかっていたのもあり、正直少し不安でもあった。最初に教会の道場を訪れてから3日後が次の稽古日だった。火曜日と金曜日の週2回だった。次の稽古日である金曜日に行くまでには時間がほとんどなかったが、ブランクを少しでも埋めるため技の練習をしておこうと思った。柔軟体操から蹴りの練習、特に回し蹴りの練習を何度も行った。しまいには引率してきた生徒の中にラグビー部の体格のいい生徒がいたので、練習相手を頼んだら面白そうだと言って引き受けてくれた。蹴りのまねをさせてそれを受ける防御の練習までしておいた。
そしていよいよ金曜日がやってきた。その日は朝から気分が高揚していたが、それと同時に多少の不安もあった。そして稽古の時間になり、寮の自転車を借りて道場に到着すると、もう何人かの道場生が空手着に着替えて道場に入っていた。僕は興奮を抑えながら持ってきたジャージに着替え、道場内に
「押忍!」と言って入った。僕が来たのを見て道場内の生徒達はこちらを一瞥し、こちらに挨拶を返すこともなく、道場の片隅に集まって何か話し始めた。どうやら、日本人の黒帯らしき男が今度稽古に参加しにやって来るという話を聞きつけていたというような雰囲気だった。僕はいわゆるアウェイの気分になり、仕方なく彼らと反対側の片隅で彼らを背にして柔軟体操でもすることにした。それから突きや回し蹴りをするなどして体をほぐし、最後には得意の飛び後ろ回し蹴りをやってみた。すると、後方から
「ヒュー!」「ワオー!」というちょっとした歓声が聞こえてきた。少しは黒帯としての実力を認めてもらえたってことかと思い、僕は少しほっとした。するとすかさずその道場生の中の1人が僕の所に駆け寄り、
「Would you like to warm us up?」(準備運動の指導お願いします)と言いに来た。
彼は中肉中背のハンサムな茶帯(一級)だった。おそらく、この中では一番古くてリーダー格のよう存在なのだろうと瞬時に感じられた。その場には黒帯はおらず、茶帯が彼を含めて2人だけだった。彼の名前はジョージ・ブラウンといった。彼との出会いはその後の私の人生を大きく変えることになるとは、その時はまだ予想だにしなかったが。僕は思ってもみなかった彼の申し出が嬉しくてすぐに、
「Yes, of course!(もちろん、いいですよ!)」と返答した。僕は早速、上下が紺色ジャージのスタイルで初対面の25人ほどのイギリス人の集団の前に立ち、まずは
「押忍!」と大きな掛け声をかけると、彼らからも、
「押忍!」と大きな声が返ってきた。僕が準備運動の、
「いち! に! さん!」と号令を掛けると、彼らもそれに続き、
「いち! に! さん!」と真剣な眼差しで声を出した。日本の空手道の気合の入った声が教会のホール全体にこだまし、私は不思議な感動を覚えていた。
始めて10分くらい経過して準備運動がそろそろ終わりかけようとした時に、道場主であるトミーが遅れてやってきた。トミーは僕を見ると、にっこり笑顔で
「押忍、サンキュウー、センパイ」と挨拶した。僕も、
「押忍!」と挨拶を返した。ちなみにイギリスでのセンパイとは「初段」という意味である。二段になると「センセイ」になる。日本人としてはちょっとおかしく思ってしまうかもしれないが、言葉とはそういうもので、これが彼らイギリス人の間で共有された1つの言葉になっていた。その後、僕に代わってトミーが正面に立ち、元立ちとして基本の技から指導を開始した。トミーは身長こそ165センチくらいで、イギリス人にしては低いほうだが、スキンヘッドで胸囲も1メートルはあり、腕も太く恰幅が良かった。貫禄のある道場主だった。黒帯の3段を示す金線3本も彼が締めるとなかなか似合っていた。そんな彼が「いち! に! さん!・・・・・」と日本語の掛け声をかけているのを目の当りにすると、空手は国際語みたいなものだなぁ、と今更になって感心してしまった。
一通り稽古が終わって、僕はホールの横にあるカウンターの裏に行って着替えをしていると、先ほど僕に準備運動の指導を頼みに来たジョージが笑顔でやって来た。どうやら日本人の黒帯である僕に興味があるようだった。どうしてイギリスに滞在しているのか、どれくらいの間滞在する予定なのか、今どこで生活しているのかといった質問を立て続けにしてきた。しまいには自分の家に遊びに来ないかと誘ってきた。
「明日は時間ありますか?」とジョージは笑顔で聞いてきた。
「時間ありますよ。けっこう暇なんです。生徒の監督業務は午後にはないことも
多いんです。ちょうど明日の午後は空いていますよ!」と僕は返答した。普段、午前中は寮の一階で生徒達は英語の授業を受け、午後は近所に観光に出かけたり、サッカーなどのスポーツをして遊んだりしていた。午前中の授業の合間には休憩時間が15分ほどあり、生徒は売店でお菓子を買うことができる。僕の監督業務としての仕事は販売時に生徒を整列させることであった。あとは生徒が前半組と後半組に分けて2週間交替でホームステイを体験することになっており、ホームステイしない場合は授業を受けられる教室付きの寮で過ごすのだが、そのホームステイ先での苦情を受けて生徒指導するくらいであった。例えば、こんなことがあった。苦情を受けて男子生徒が泊まっていた家に行き、そのホストマザーから話を聞くと、その生徒が夜中に起きてたまたまホストマザーと廊下で会った際にネグリジェ姿の彼女を見て、
「オー、ユーアーセクシー!」と言ってしまったそうだ。ホストマザーはかなり不気味になり、もう面倒が見られないので引き取ってほしいと言われてしまった。その際は仕方ないので寮に彼を引き取り、その後、その生徒の指導にあたった。生徒は思い浮かんだ英語を思わず口にしてしまったのかもしれないが、普通に考えれば、
「あなたは悩殺的ですね!」などと、ほとんど親しくもなっていない外国人の他人から、いきなりそんな失礼なことを言われたら不気味に思うのは当然だろう。とはいえ、そんな指導はめったに起きなかったので、普段はかなり暇を持て余していた。翌日には誘われたジョージの家を昼過ぎには訪ねていた。前の晩にジョージに書いてもらっていたジョージの家への道のりをメモで見ながら、それらしきテラスハウス風の建物を見つけることができた。ドアの横にあったベルを鳴らすと、ほどなくして戸が開き、ジョージが笑顔で出迎えてくれた。中に入ると、母親を紹介してくれた。50代前半くらいに見え、ブラウンのショートカットで、優しい感じの小柄な細身の女性だった。笑顔で挨拶されてとても感じが良かった。
すぐに彼の部屋へ通された。日本でいえば6畳ほどの部屋で、独身者の部屋にしては小綺麗にしてあった。少しすると母親が紅茶を持ってきてくれた。僕は普段ジョージが使っていると思われる書斎の椅子に腰かけ、ジョージは簡易的な椅子に腰かけて、それからどちらからということもなく話が始まり、1時間、2時間はあっという間にたってしまった。話の内容は主に空手の話だったが、それから日本の習慣や、イギリスの習慣、さらにプライベートな話になっていき、好きな女性のタイプから、彼女の話まで話すようになっていった。英語はずっとやってきたとはいえ僕はさすがに疲れを感じた。それでも、今まで欧米人とこんなにじっくり楽しく話をして盛り上がったことがなかったので、その疲れを超えて話を続けることができた。そして話もようやく一段落したので、2人でチェスをすることになった。僕はチェスをするのは初めてだったが、ジョージにやり方を教わっているうちに、日本の将棋とルールが似ていることに気づいた。そうこうしているうちに夕方になり、とりあえず寮へ帰ると告げると、
「また来てくれ、いつでも歓迎するよ!」と言われ、とてもうれしい気持ちで帰宅の途に就いた。ジョージの家から寮まで徒歩で15分くらいかかったが、イギリスのグリーンの芝生で覆われたきれいな街並みを見ながら歩くのはとても爽やかで気分が良かった。6月の夕方に吹く穏やかな風もまた心地良かった。
そんなこともあり、僕の英国滞在生活にも活気が出てきて、それまでの平凡で退屈な生活から解放された気分だった。翌日には日本の実家にいる母親に直接電話をし、空手着をすぐにイギリスに送ってくれるよう頼んだ。母親にしてはちょっと不思議に思ったようだったが、事情を説明するとすぐに納得してくれた。ジョージのいる道場には週2~3回は行くようにした。滞在期間は1か月なのでもっと行きたいところだったが、道場も教会のホールを借りているので、毎日やっているわけではなかったから仕方なかった。
ジョージの自宅を訪問した翌週には日本から空手着も届いた。大袈裟だが、この時ほど母親に感謝したことはなかったような気がするくらい嬉しかった。ジャージで稽古に行って、たとえ黒帯と認められたからと言っても、やはり空手着を着て黒帯を締め、英国の道場で稽古したいと思うのは当然のことだった。
そして2回目の道場稽古に行く際には空手着を持参して行けたので、僕は嬉しくて胸を躍らせた。久しぶりに、そしてイギリスの道場で黒帯を締めた気分は最高だった。道場生たちは黒帯を締めた僕の姿を見て、本当に黒帯だったんだ、という彼らの疑念が払拭されたような顔つきで僕を見ていた。稽古が終わった後は、たいてい仲の良い仲間数人で車に乗り込んでビールを飲みにパブに行き、楽しい語り合いをした。ジョージが中心になって毎回僕を誘ってくれた。僕が行けば、当然のことながら日本の空手の話になった。
「ナオトはいつから空手をやっているんです
か?」
「ナオトは試し割りで何を割れますか?」
「日本にはどんな強い選手がいますか?」といった質問攻めになった。みんな僕に質問する際に、とても丁寧に気を遣いながらも、フレンドリーな表情で話しかけてくる態度に、僕はとても感銘を受けた。英国人と一つの武道を通して交流できている状態がとても新鮮に感じられた。これが国際交流ってやつなんだなぁ、という思いに耽った。
そんな楽しい生活もあっという間に終わり、退屈な4週間が、楽しくて充実した4週間に変わってしまった。人生とはつくづく面白いものだと、この時ばかりは実感した。そして、空手をやっていて本当に良かったとも思えたひと時だった。帰国すると、もう7月初旬で、イギリスとは違い日本はかなり蒸し暑かった。帰国してからもイギリスへの思い出は強く、しばらくの間は時間があれば物思いに耽っていた。
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〜続く
イギリス人の空手家との出会い(1)
6月初旬の夏の気配を感じる時期に僕はイギリスに初めて渡った。その際、イギリスの伝統や文化の重みを非常に肌で感じた。それはイギリスに飛行機で降り立つ直前、空から見えた街並みの景色や、初めて目のあたりにしたイギリスの19世紀の雰囲気を残している街並みで感じられた。空からの景色はほとんどの家の屋根がベージュ系一色で統一され、街並みはチャールズ・ディケンズの「大いなる遺産」、や「オリバーツイスト」などに登場する光景だった。石畳が地面一面に連なって,ヴィクトリア調のレンガを用いた建物が立ち並び、古き良き時代を大切にする文化がそこには根付いている。日本のように再開発に力を入れ、古き良き伝統が感じられる建物を減少させている国とは大違いである。毎週日曜日には公園でフリーマーケットが行われ、家具などの中古品がたくさん売られて賑わっており、日曜日の朝にはテレビで使い古された家具が高値で取引されているオークション番組が放送されて高視聴率を取っているという具合なのである。
それはともあれ、僕がどうして英国に行くことになったかというと、勤務先での出張によるものだった。僕の名前は石上直人で、高校の教諭をしている。出張での職務は高校生を100人ばかり英国に引率し、一か月間現地の語学学校に通わせ、僕は彼らの監督業務をするということだ。僕は英語科教員として英国へ生徒引率するために度々行かなければならなかったのだが、この時は初めてだった。仕事はもっぱら生徒の管理なので普段の生活はわりと暇だった。イギリス人の教員たちとたまに夜になるとパブに飲みに行くくらいが唯一の楽しみだった。ちなみにここでいうパブとは、日本でありがちなカウンター越しに女性のいる飲み屋とは違ってPUBLIC(公衆)のための飲み屋という意味で、日本で見かけるワンショットバーのような店のことを言う。イギリスではこのパブという飲み屋が主流である。そのパブに、ある晩気晴らしに同僚を伴って行った際、僕は入り口のドアに空手道場のポスターが貼ってあるのを発見した。そこに馴染みのある空手流派のマークがあり、それは僕がそれまでやってきた空手流派のマークだった。僕が仕事で赴いた場所は英国でも田舎の方で、ケント州のハイスという港町だった。こんなイギリスの田舎町にまで日本の文化が浸透しているということに驚かされたのと同時に、とても嬉しかった。
翌日、早速僕はその道場の所在地に向け、寮で借りた自転車に乗って向かった。そこは隣町のサンドゲートという町にあった。5分くらいで到着した。海岸沿いの通りから少し内側に入り、穏やかな坂を登った路地にある教会のホールにあった。中に入ってみると、私の空手着と同じマークの入った空手着を着ているイギリス人がたくさんいた。20人以上はいるようだった。その老朽化しているが頑丈そうに造られた教会のホール内に、
「セイヤー!」と日本人のような掛け声がこだましていた。
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